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「心といのちの講座」 第1回 講座・序講座・本編資料(PDF)

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1章 一般的な輪廻のこと(話)
1.輪廻の言語
 一般的な輪廻観というものを、ちょっと最初のほうに書かせてもらっております。輪廻というのはサンスクリットでは、サンサーラ[samsara]という意味で、「流れる」というような、または「流れること」というような意味を持っておりまして、漢訳の辞書を見ますと、いろいろな意味があります。流転だとか、輪廻転生だとかあります。だいたい、学的キーワードとしては、輪廻で、転生がつかないのが一般的のようですが、生死輪廻とは、衆々の「いのち」のあるもの(衆生)、または、「こころ」のあるもの(有情)、が生死を繰り返すことを言っています。衆生が迷いの世界に生まれ変わり、死に変わりして、車の輪のように繰り返えすことを一般的に輪廻と言うようです。
2.輪廻転生の原因
 輪廻転生の原因とは一体何なのかと言うと、身・口・意の三業によって、それがなされる。これに伴って貪・瞋・痴等の煩悩が起こる。その煩悩の力によって、その行為があるんだというんですが、その煩悩はどこから生まれて来るのかということになると、身業、それから口業、それから意業というようなものから出て来る。それは因縁によって和合され生起するものだと言われております。
3.解脱の行為
 輪廻が問題になると、必ずそれは解脱というものが対抗のものとして無くてはいけない、という考え方が仏教にあります。それから解脱を求めるのが宗教の目標でもあります。その基本となるものとして、五戒があり、大乗仏教では六波羅蜜というものが上げられます。修行方法としてある。六波羅蜜を満足すれば解脱が得られる、というのが大乗仏教の基本であろうと思います。
4.輪廻の主体
 輪廻の主体としてはどういうものがあるかと言いますと、学派によって、部派によって、いろいろな名前が出て来るんです。例えば、今日お話しする唯識説では、阿頼耶識[あらやしき]が中心になると言うようなことです。
 輪廻転生するということになると、どういう世界を輪廻転生するのかということになります。それは三界六道(@地獄、A餓鬼、B畜生、C阿修羅、D人間、E天人)というところを繰り返し生まれたり死んだりすることを輪廻転生と言って、その上の四聖(F声聞・G縁覚・H菩薩・I仏)に対しては、そういうことは言わないことになっています。
5.三世両重と十二因縁
 輪廻転生はどういうように行われるのか、どういうものを基本に考えるのかということについて、三世両重の説があります。三世両重を考える時に、十二因縁を配して考えられています。十二因縁によって、輪廻の原因と結果が三世に二重に説かれるということで、三世両重説と言われているところです。それの簡単な説明をしますと、過去世の原因があって、その原因によって現在世がある。その現在世で新しい原因を作って、未来世があるというように理解する。それが三世と十二因縁との関わり合いはどうかということになりますと、過去世の無明と行を原因として、識と名色と六入と触と受の結果が生起する。更に、現在世の中で愛と取と有を原因として、その結果として未来世の生と老死があると言います。原因と結果が二重に説かれることから三世両重といわれています。
6.十界の名称
 それから十界の名称を此処に挙げておきました。しょっちゅう出てくる名前ですので、皆さんご存じだろうと思うんですけれども、地獄、餓鬼、畜生、修羅(阿修羅ですね)、人間、天人、声聞、縁覚、菩薩、仏、というものです。三界六道または五道というんですが、三界とは欲界、色界、無色界。五道とは阿修羅を抜くわけですね。そうすると九界しかないんですね。例えば『開目抄』等で日蓮聖人が法相唯識を非難する時に、唯識は八界を説いて十界を説かない、という言葉があります。学者によって、その二界は何と何を指すのかということが、よく論じられて不統一なんですけれども、こういうところも参考になるだろうと思います。

2章 唯識説の系譜略伝
 いよいよ唯識のほうに入っていきたいと思います。ご存じのように仏さまがいつ亡くなったのかということになりますと、いろいろな学説がございますが、一番最初に仏さまが亡くなった年代を確かなものとして設定しましたのは、宇井伯寿先生で、紀元前約466年から386年(80才)という説を出したんです。この宇井説は高楠順次郎説よりも約100年ほどおそくなっています。その「仏滅年代論」は『印度哲学研究(二)』(岩波書店)の中に入っております。それを受けて今度は中村元先生が、恩師の宇井先生が見なかった新資料を見つけました。それによれば、3年間、恩師のを縮めなくちゃいけないんだと、こういうようなことで、ここで3年間おそくなり紀元前約463年から383年と設定しました。これは「ゴータマ・ブッダ(釈尊)の年代」という論文で『インド古代史(下)』(春秋社)と言う論文集の中に、短い論文ですけれども入っております。そういうことで、紀元前約383年ごろに80才で仏さまが亡くなったと考えられています。それで唯識学派はいつごろ起こったかと言いますと、今度は其処に弥勒というのが出てきますけれども、弥勒[みろく]が270年から350年頃の人だというのが宇井先生の学説なんです。ずっと年代を入れてあるのは宇井先生の説です。世親[せしん]に関しては沢山の研究家がおりまして、年代が色々と言われております。で、無著[むじゃく]がおります。それから世親[せしん]。この間、無著、世親というのは、興福寺の展覧会で国宝が展示されましたけれども、その無著と世親です。世親は唯識の大成者ということで、沢山の研究がありまして、宇井説では320年から400年、干潟竜祥先生の説では400年から480年、最近の学説としては、加藤純章氏の説で350年から430年です。ご存じのように、仏さまが80才で亡くなったということを前提にして考えまして、こういう高僧たちもすべて80年くらいは生きただろうとういう前提の基にこういう年代が設定されております。で、陳那[ぢんな]がいて、護法[ごほう]がいます。護法(530−561)からは確かな年代になります。なぜかというと、護法の弟子の戒賢[かいけん](520−645)が125才まで生きまして、この戒賢に付いて玄奘[げんじょう](602−664)が4・5年間、護法の唯識説を学んでおりますので、この護法、戒賢からは、インド人ですけれども、年代がはっきりしてきます。この護法の、たった31才で亡くなった護法の唯識学説が、いわゆる法相唯識学説の基本になりまして、法相唯識学説では護法の学説が正義とされるわけです。
 それから法相宗の所依の経典としては『解深密経』3巻があるんですが、論書としましては、法相宗は『成唯識論』[じょうゆいしきろん]10巻を所依の論書としております。主な論書を挙げますと、『瑜伽師地論』[ゆがしじろん]100巻。この中には、『解深密経』3巻を含んでいます。そういうことから、私の恩師であります、勝呂信靜先生は、この弥勒というのは、未来仏の、未来に生まれてくる弥勒に仮託したものが、この瑜伽師地論100巻の作品であって、それを誰が作ったかというと、3つの研究グループがあって、若い研究グループ、中年の研究グループ、それから年取った研究グループというのがあって、その3つくらいの研究グループが、編纂したものが、この瑜伽師地論100巻だろうと、こういうふうにおっしゃってまして、それを指導したのは誰かというと無著だと、こういうふうな結論で、勝呂先生の『初期唯識思想研究』という学位論文が公にされております。この100巻を短くしたのが無著で、『摂大乗論』[しょうだいじょうろん]3巻というのがあります。その摂大乗論3巻を注釈したのが世親で、『摂大乗論世親釈』10巻、正しくは『摂大乗論釈』というんですが、無性の注釈というものがあるものですから、分かり易くするために摂大乗論世親釈と言って10巻あります。
 これが一つの問題点であって、資料に出しておきましたんですけれども、真諦[しんだい]三蔵というのがおります。真諦は499年インドで生まれ、546年に中国に入り、569年70才で亡くなったと言われています。この人が非常に特徴のある翻訳をしております。どういう特徴があるかというと、唯識説というのは、日蓮聖人も『開目抄』の中で非難をしているように、二乗不成仏、二乗は成仏しないということを明確にするんですね。ところが、この真諦は、そういうことを一切言わない。唯識の思想の中に、如来蔵仏性[にょらいぞうぶっしょう]の思想を遠慮無く入れてきてしまっている。それで現時点では、真諦三蔵の翻訳の訳出の諸論書だけに、第九阿摩羅識[あまらしき]が説かれる。こういうような特徴を持っています。
 それから、成唯識論10巻、これは現在の法相宗、南都六宗の法相宗、元興寺、興福寺、薬師寺、それから京都の清水寺、等々の法相宗の所依の論書が、この成唯識論10巻です。これは基になるのは、世親の『唯識三十頌』[ゆいしきさんじゅうじゅう]です。この三十頌は晩年の作だといわれております。唯識二十頌の場合は二十頌を作った後に注釈を付けましたから、現在、『唯識二十論』と言って、世親の頌と世親の注釈があるんですけれど、この三十頌、唯識の大成書としての唯識三十頌には、どういうわけか知りませんけれども、世親の注釈がありません。そのために、その後の10人くらいのインドの高僧たちが、学僧たちが、注釈を付けます。それを玄奘が勉強してきたわけです。これに関してはこういう逸話があります。玄奘が大勢の弟子たちと一緒に、この成唯識論のノートを翻訳しようとしたところが、窺基[きき]が申し入れるには、こんな難しいことを分からん人の前で話したって、どうしようもない。だから私と先生だけでこの翻訳は作らせて頂きたい。ということで、この成唯識論は、玄奘と窺基によって編纂、合糅[ごうじゅう]されたものです。それで更に窺基が言うには、10人の注釈をつらつらと並べられたって困る。先生、一体誰を中心に勉強してきて、誰の学説が一番正しいと習ってきたのかということになりまして、そうしたら玄奘が、戒賢の恩師の護法の唯識説が一番正しいとして習ってきたんだと。ではそれを正義として、後の人のは適宜に取捨選択致しましょうと言うことで出来上がったのが現在の成唯識論10巻でございまして、そしてそれは今言いましたように、南都六宗等々の法相唯識の所依の論書でございまして、それの特徴というのは、六経十一論、6つの経と11の論書の思想に依って作ってあります。大乗経典はたった華厳経が1つだけちょこっと入ってるだけで、後は全部小乗仏教のものでございます。そういう特徴があります。

3章 唯識における輪廻転生
 それでは、これまでは導入分でございますので、そろそろ本題に入っていきたいと思います。唯識説を話すには、はじめに八識の構造というものを皆さんに紹介したほうが、分かり良いだろうと思います。そこで八識の構造を書かせてもらってあります。
 (六処) (六根) (六識)
まる1眼根眼識(第1識)
まる2耳根耳識(第2識)
まる3鼻根鼻識(第3識)了別境識第三能変(識)
まる4舌根舌識(第4識)
まる5身根身識(第5識)
まる6意根意識(第6識)
末那識 (第7識)思量識 第二能変(意)
阿頼耶識 (第8識)異熟識第一能変(心)
1.八識の構造
 一番最初、六処のところですけれども、色、声、香、味、触、法、という6つがあります。これに対して六根が出てきます。眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根です。根というのは、サンスクリット語で、インドリアと言いまして、感覚器官のことです。色というのはルーパと言いまして、姿・形のことなんです。それから白とか赤とかいうのはランガと言いまして、言葉が違うんですね。仏教用語で色[しき]と出てきましたら、必ずルーパのことだと、姿・形のことだというようにお考えになったほうが正しかろうと思います。それを認識するための眼識、こういうようになります。だから、姿・形(色)を眼の感覚器官(眼根)で見て、それを眼の意識(眼識)で、ビジュニャーナ(識)で意識すると、こういうふうなのを、これを称して、第1識と分かり易く、普通、唯識ではそういうふうに言っています。それと声に関しましては、耳で聞いて、耳根で聞いて、耳識で理解する、第2識です。こういうふうにして、香りを鼻根で嗅いで、鼻識でそれを認識する、第3識です。味は舌根で味わって、その味が美味いか苦いか酷いか辛いかというようなことを舌識で考えて、それを直ちに第6意識に収める。触というのは寒いか冷たいか堅いか柔らかいかというようなものを、身体の感覚器官(身根)で受けて、それを身識が通達を受けて知ってそれを第6識の意識に教える。そして第6意識が法を持ちます。これは結構勉強した人でも、此処で何で法が有るんだって言うんで、ガクンと来ちゃうんですけれども、この法は教えではございません。これは存在です。同じダルマなんですけども、ダルマ(法)には沢山の意味がありまして、9つか10個くらいの意味があるんです。その中で、この存在は認識対象としての法で、いわゆる唯識で義[ぎ]とか境[きょう]とか言われるものです。意根がありまして、意識がございます。これが第6識です。これが上のほうに六処、六根、六識とありますから、さぶろく[3×6=]18で18界です。一般の学問でいう仏教の世界では、この18界が世界全部です。
 ですが、唯識説では、さらに第7識の末那識[まなしき]というのを付けます。それから第8識の阿頼耶識というのを付けます。それに番号を打ちまして、1から8まで番号があります。その横を見て頂きますと、お分かりになると思うんですが、第一能変というのが、第8識の後ろに付いてます。第7識には、第二能変と書いてあります。それから第1識から第6識までの全部を第三能変と書いてあります。唯識説では、第一能変を心、普通の言う心ですね、心[しん]と言います。それから第二能変は意識の意と言います。それから第三能変を識と言います。唯識説のことを、心意識論とか、心意識説とか言うときがあります。また、心識説ということがあります。例えば、書名で『仏教における心識説の研究』というのががあります。その場合は、仏教における唯識説の研究と言わないで、心識説の研究と言うような名前をつけてあります。
 私ども一般の認識としては第1識から第6識までです。唯識では6識までの経験が7識に行って、7識から8識に行って留まると言います。第8識に全ての認識が、蔵や家の中に摂められるようにおさめられると言っています。これが一般的な表層から深層へという理解の仕方なんです。しかし、唯識説はそういうふうな考え方はしないんですね。唯識の考えは、第一能変、番号が第1となっています。一般に識は、1識、2識、3識から8識までずーっと続きます。ところが唯識に限って、第8識が第一能変と言っています。ですから、第一能変から心が顕現してくる。心は第三能変(前6識)からは起こらない。第一能変から心が起こります。そして、第二能変に働きかけます。そして、第二能変から第三能変に働きかけます。ですから、皆さんの考えている一般的な考えの、全く逆なんですね。そういうことがあります。
 今度はですね、それをまた分けます。前6識、今言いましたように前6識が第三能変です。これは、了別境識と書いてありますように、境[きょう]を了別[りょうべつ]する識で、境というのは外界のものです。心の認識対象のものを一つずつ理解していく識、それが第1から第6までの了別境識です。それは、寝ていれば景色を見ない、横になっているから声は聞けるかも知れない、香りも匂いもない。寝てるんだから何かを食うようなこともないだろう。寝ているんだから触れることもないだろう。それで寝ているんだから見てもいないだろう。だけど、心は働いている。そういうものが、この第6識です。だから心(第6識)が働く時と働かない時がある。というんで、有間断[うけんだん]、間断[けんだん]が有ると言うわけです。第7識は今度は奥の方にある識として考えますから、これは思量識[しりょうしき]と言います。第二能変は思量識だという。この思量識は、恒審[ごうじん]思量識と言いまして、恒[つね]に考える識と、審[つまび]らかに考える識の、2つに分かれまして、恒に考えている識が無間断なんです。審らかに考えると言うことは、6識のように眼で見ている、そして色々感じて、審らかに感ずるわけですから、それは働かなかったり働いたりするわけですから、これは有間断なんです。ところが第7識には、ずーっと続いていく意識の一部分と、ぷつんぷつんと切れる意識の部分とがある。だから2つの働きを持っているということです。これは身体が有るということの証明なんです。1つは。第8識になりますと、これは異熟識[いじゅくしき]と言いまして、後で出てきますが、これはずーっと続いている。第8識が切れたりはしない。ずーっと仏になるまで、ずーっとずーっと続いていく。三阿僧祇劫続いていくというのが唯識説の考え方です。修行に三阿僧祇劫かかると、やっと仏になれるかなということになります。そういうことで、異熟識、無間断というのがあります。このこともまた基本中の基本です。
○五位百法
 それから五位百法というのがあります。五位百法は、心、それから宇宙、全てがこの五位百法の中に入っているということです。@心[しん]には第1識から第8識があります。これを心の中心に働くものとして、心王[しんのう]と言います。それで心王には8つある。心王が働く時にA心所[しんじょ]が働く。心が働く時に心所が働くということで、心所があります。だから一般的に唯識の論文では、心・心所を論じているというふうに思ってくだされば、よろしいかと思うんです。B色[しき]、これルーパですから、形のあるものに関する分類です。それからC不相応行[ふそうおうぎょう]と言っています。色不相応行とも言います。この色の中に入らない色のもの、色に相応しないところのもの、無くてはならないもの、ということで、この不相応行があります。それから、D無為[むい]。唯識説は有為[うい]法しか説きません。無為法は唯識説は説かないんです。だけど無為の世界があるということで、無為の分類だけはあるんです。唯識説では、無為、真如[しんにょ]というような絶対なものは、あまり説かない。あくまでも無為といえども有為の中の無為である、ということで、五位百法というのがあります。
○身体と五蘊
 身体[からだ]というのがございます。身体はどういうふうに出来ているのか。仏教では、五蘊[ごうん]が集まって身体が出来ていると言います。それを五蘊身[ごうんしん]と言います。身[しん]というのはサンスクリット語でカーヤで、集まりです。その五蘊とは、色蘊[しきうん]、受蘊[じゅうん]、想蘊[そううん]、行蘊[ぎょううん]、識蘊[しきうん]、のことです。色蘊だけは物質的なものを意味し、後のものは精神的なものをいうもので、物質的な肉体と、それから精神的な心とが一つになって、人間は構成される。人間とは限りません。有情というのは、情(こころ)の有るもの、という意味ですから、動物もすべて有情なんです。それから衆生というのもそうですね、もろもろ(衆)の生あるもの、ということで、有情も衆生も同じで、人間を限定して指している仏教語ではありません。広い意味では「こころ」のあるものという意味で、狭く採れば人間というふうにも採ることが出来ます。
○心
 一般的には、心は表層から深層へと働くとみなしています。これに対して、唯識説では心は深層である、第一能変(第8識)から第二能変(第7識)を通って第三能変(前6識)へと働くということが基本中の基本です。これを一歩も譲りません。こういう特徴があります。この点が他の仏教の教理と異なるところであります。それをどういうふうに表現するかというと、万法[まんぽう]唯識、唯識は不離識[ふりしき]、こういう表現で言ってます。この万法の法を有というふうに書く場合もあります。万有[まんゆう]唯識、または万を諸[しょ]、諸法と書く場合もあります。万というのは諸々のことですね。法というのも存在のことですから、有とも言います。万法唯識、全ての存在はただ識のみで有る、唯識とは、唯・有・識、ただ識のみ有りということの有を取って短く中国人がしたわけです。それを唯識と言っています。本当は唯有識のことです。ただ心のみが有るというのが唯識です。全てのもの、この五位百法の全てのものは、ただ心から現れたものであるというのが万法唯識ということです。
 それから唯識不離識の唯識は、心の認識対象であるすべてのものは、識を離れてあるものではない、と言うわけです。この2つの識はサンスクリットの原語が違います。サンスクリットを少し勉強して頂くと分かるのですけれども、唯識はビジュニャプティ・マートラ(vijnapti-matra、唯有識、ただ識のみがある)という表現です。不離識の識はビジュニャーナ(vijnana)なんです。さっきありました第1識とか第2識という識はビジュニャーナなんです。ここでいう唯識の識はビジュニャプティという表現なんです。これは表層、対象物としての、認識対象として心の上に描かれているところのもの、というふうにとってもらえれば良いと思うんですね。そして全ての存在(世界)は心の奥から現れてきて、心の認識対象のみ(ビジュニャプティ、唯識)としてあるものであると説かれます。それはビジュニャーナ(識)を離れて有るのではない、というのが唯識の世界です。だからビジュニャプティというのとビジュニャーナとは違うんです。サンスクリットの原語が分かってしまうと簡単なんですけども、昔の漢訳だけで勉強していたお坊さんたちは大変な苦労をしたんだろうと思います。それに捕らわれていますと先へ進みませんので、次へ行かせて頂きたいと思います。
○唯識説の輪廻の主体
 唯識では輪廻の主体は阿頼耶識であると、こういうふうに言っています。アーラヤ(阿頼耶)とは何かと言いますと、サンスクリットでは、アーラヤ(alaya)、これはaの上にハイフンが付くんですけれども、アーラヤと言います。アーラヤというのは、物を入れておく蔵、それから私たちの宅というふうに漢訳されています。アーラヤという表現があります。これは今も使われています。カーナーラヤと言いますと、これは台所なんですね。ご飯を食べる所。カーナというのは、食べるという動詞です。それにアーラヤを付けて、カーナーラヤというのは食べる場所と言うことです。ヒマーラヤとは、ヒマ(hima)は雪のことです、ヒマーラヤとは、雪が一年中ある場所と言うことです。アーラヤとは現在でも使われている言葉の一つです。それを何故そういうふうに、蔵識、宅識と訳さないのかというと、アーラヤ識には顔が7、8個あります。その顔をよく理解してもらうために、簡単に蔵識、宅識としてしまうと、勘違いをしてしまわれると嫌だなと思ったんでしょうかね。阿頼耶識の働きに応じて沢山の異名があります。阿頼耶識は第8識とも言います。阿頼耶識は第8識という表現をします。その第8識である阿頼耶識の異名、別名として、心、阿陀那[あだな]、執持[しゅうじ]という意味、所知依[しょちえ]という意味、それから種子識[しゅうじしき]という意味、それから阿頼耶[あらや]という意味、それから異熟識[いじゅくしき]という意味、それから無垢識[むくしき]という意味などがある。だから、これを蔵識と意訳してしまうと狭い意味になってしまいます。そういう意味では、第7識の末那識もそうです。第6識は意識ですので、サンスクリット名は、マノー・ビジュニャーナ(mano-vijnana)といって、マナス(namas、意)である識のことです。マノー・ビジュニャーナ(意識)というんです。第7識もマノー・ナーマ・ビジュニャーナ(mano-nama-vijnana、意(こころ)と言われる識、末那識)と言っています。ですから、同じように第7識も意識と訳すれば良いわけですね。真諦三蔵はそういうふうに訳している。だからもぅ時々分からなくなる時もあるんです。玄奘は6識と7識をはっきりと分けたほうが良いだろうという意識もありましたことでしょうし、世親自身も、マノー・ビジュニャーナとマノー・ナーマ・ビジュニャーナというふうに書き区別していますので、やっぱり音訳しまして末那識というふうにしてある。阿頼耶識も同じような意味です。そういうことになってきます。それから阿陀那識[あだなしき]という、アーダーナ識(adana-vijnana)というのがその次にあります。これは執持という意味で、身体を持つという意味です。これは真諦三蔵の場合は第7識を阿陀那識と言っているんですが、玄奘三蔵の場合は、阿陀那識を第8識の異名の中に入れていて、第7識を末那識として立てるというふうな違いが、ここに出ています。
 それでは、今日のこれからの今私どもが勉強しようとしていたところに、いよいよ、やっと入れるというところまで来ましたんですが。ちょっと時間を取りすぎたでしょうかね。急いで進ませて頂きます。
2.輪廻の原因としての四根本煩悩
 唯識説では輪廻の主体は阿頼耶識であると言います。先程一般的には身口意の三業による、貪瞋痴等の悪業による働きとして、輪廻転生があると話しましたんですが、唯識説ではどういうふうにそれを説いているのかというと、『成唯識論』によりますと、4つの煩悩、四根本煩悩によって、それを考えています。それはどういうところに出ているかというと、『唯識三十頌』の中の第6偈から7偈にかけて説かれています。第6偈に次にように説かれています。
[第7末那識は]四つの煩悩と常に倶[とも]なり。謂く我癡[がち]と我見[がけん]と我慢[がまん]と我愛[があい]となり、及び余[よ](随煩悩)と触等と倶なり。有覆無記[うふくむき]に摂めらる。(6偈)
 これは第7識の末那識の特徴を説いているわけです。第7識はどういう識かというと、中心としては4つの煩悩から出来ているものが第7識なんだと言っています。我癡と我見とそれから我慢と我愛とによって出来ている。それは輪廻の原因になる。そしてそれは第7識に属するものだと言います。その第7識というのは何かと言うと、第7識の特徴としては、有覆無記であると言います。有覆無記の第7識にそれが属していると、こういうふうに言っているわけです。そしてそれの注釈の部分をまた『成唯識論』に見ますと次のように説かれています。
此の四つのいい、[4つというのは]常に起こって内心(第7識)を擾濁[じょうじょく]し、外[そと]の転識[てんじき](前6識)を恒に雑染[ぞうぜん]に成らしむ。有情は此[これ]に由[よっ]て生死[しょうじ]に輪廻しつつ出離[しゅつり]すること能[あた]わず。故に煩悩と名づく。(『成唯識論』第四)
この前の6偈に対する説明としてあります。ですからこの4つが第7識の働きとしてあって、この4つの業の働きによって、我々は出離することが出来ない、解脱することが出来ない、解脱することが出来なければ、生[しょう]と死[し]の間を、車の輪のようにぐるぐると回らなくてはいけない。その中心の識としては第7識が当てられている。第8識ではなくて、その働きの中心は第7識に当てられているということになります。
 我癡とはどんなものか、我見とはどんなものか、それから我慢とはどんなものか、我愛とはどんなものか、というのを深浦正文先生の『唯識論解説』を参考にして説明します。
 我癡というのは無明です。無明というのは、ご存じのように、よく使われる言葉ですけども、これは煩悩の中心になります。十二因縁の場合も無明から始まりますように、全ての煩悩の中心になるのが無明である、というふうに言われております。無明でも、当座あるものと、ずーっと阿頼耶識と共にある無明と、二手に分かれます。そういうことが論じられるわけですね。
 それから我見があります。我見というのは有身見[うしんけん]と言って、身体が有る見、有身見と言いますから、身体があるということを一つの迷いとして持っているんです。それで、見には正見[しょうけん]と悪見[あくけん]がある、というふうに言っていまして、ここでいう我見は、悪見の中の一つです。五悪見とは、@身見[しんけん]、A辺見[へんけん]、B邪見[じゃけん]、C見取見[けんしゅけん]、D戒取見(戒禁取見[かいごんしゅけん])のことです。この我見というのは、身見のことを我見と言います。我見はどういうことから起こってくるかというと、顛倒[てんどう]、心を物を間違って理解することから起こってくる。正しく見ないで間違った理解から起こってくるということで、我見というのが出てきます。それはどういうことかと言うと、先程言いました、身体というのは五蘊から出来ている、五蘊が集まって身体が出来ているという、この五蘊の和合によって身体が出来ているというものを、間違って理解してしまって、常恒[じょうこう]に、常[つね]に恒[つね]にそれ(身体)をあるものだと思ったり、それから単独に一つとしてあるものだと、こういうふうに思ったり、そういう我見、間違った考え方に捕らわれた考え、それをここでは我見と言っています。これは常・一、主宰[しゅさい]という言葉があって、これはアートマン(atman)、インド教のアートマンを否定する一つの言葉としてここに出てきます。絶対な物というのを否定する。その絶対な物を否定しているということは、唯識では何を否定しているかというと、如来蔵仏性の存在を否定するということにつながります。如来蔵仏性というのは、ご存じのように、固定観念としてあると、人には仏性があると、人には如来蔵がある、という固定観念を持って心を論ずることは、唯識では絶対に認めない。ということで、それとつながるものとして、恐らくですね、常・一を否定した、捕らわれる物として我見があると言います。
 その我見の中にですね、分別起[ふんべつき]の煩悩と倶生起[くしょうき]の煩悩というのがありまして、これが悟りを開くか悟りを開かないか、要するに輪廻転生するか輪廻転生しないか、輪廻転生するにしても何処まで輪廻転生の我見が続くのかということがあります。分別起の煩悩と倶生起の煩悩というのが考えられています。分別起の煩悩というのは、お分かりのように、分別する。Aでもない、Bでもない、ああでもない、こうでもない、という分別起の煩悩です。これは肉体を持った後のことが中心に考えられます。これに対して、倶生起の煩悩と言うのは、倶生ですから、生(いのち)と倶にあるわけです。これは前世から持って来ている煩悩を含んでいます。それで更に今世において分別起の煩悩をそこに足される。それを来世に持って行く。こういうのが倶生起の煩悩で第7識に係わります。これをどう断ずるのかというのが、これが仏教の大命題、唯識の大命題というように考えて頂ければいいです。我慢と我愛、これはそんなに難しいことではありませんのでとばします。
○有覆無記=第7識
 有覆無記の考え方ですが、これはちょっと厄介なんです。後のほうの種子[しゅうじ]の説のところに来ないとちょっと、まぁずーっと話を聞いていきますと段々と分かって頂けると思うんですが。有覆無記という考え方がこの第7識にあるんだと、こういうふうに申し上げました。それじゃぁ、それは何なんだと言いますと、善・悪・無記の三性説[さんしょうせつ]という説が唯識の中にあります。この第7識は、恒審思量識[ごうじんしりょうしき]、恒[つね]に審[つまびらか]に思量する識、だと先程申しましたように、そういう意味を持っています。恒にというのは不断に相続する、切れ目が無くずーっと相続していくという、第8識の見分の、難しいことを言っていますけど、第8識に属するものだと、こういうふうに理解してください。それから審にというのは、第1識から第6識で理解するわけですから、深明[じんみょう]に計度する、分別する、ああでもないこうでもないと分別する、第7識の働きになります。眼・耳・鼻・舌・身・意という前6識が審に分別するということが、中心の働きとしてありまして、その前6識が恒の義、要するに恒常、恒にずーっと続くというそういう意味はございません、というのが考えられる。前5識には計度・相続共にない、と言っているのは、そのところでございます。
○無覆無記=第8識
 第8識は、無覆無記と言われます。これは完全な中容、または中性というように考えられています。
 ここで、三性説についてふれることにします。善・悪・無記の三性説というのがあります。善の原因は善の結果をもたらす、それから、悪の原因は悪の結果をもたらす、これは等流果[とうるか]と言いまして、等しく流れる果ということです。これは一般的に考えられる論理です。それに対して、ここに無記という表現が出てきます。無記というのは、中容だと言うんです。どれにもこだわらない。ですけれども、7識は恒に審に考える識だというように断っていますように、第7識は、いつもいつも自分の世界のことしか考えない識というように考えております。どんなに自分が悪くても、否[いや]、と言う、俺のほうが正しいんじゃないの、という考え方。それから、何でも絶対に、うんとは言わないという自己意識の持ち主が、この第7識です。これは第1識から第6識のように、強いものではない。非常に柔らかい、薄く柔らかいものとして、そういうのが第7識の特徴としてある。そういう意味では厄介な識なんです。それがどういうことかというと、それが有覆ですから煩悩を持っている。柔らかく、ふっと頭から被せるような柔らかさを持った、薄い薄い柔らかい自我意識を持っている。それがどういうことなのかと言うと、我々の経験というのは、蔵識である宅識である第8識に必ず摂められる。どんな経験も第8識に摂められるというのが基本にありますから、そうすると、前6識で経験したものが第7識に来て、第8識に入って、蔵の第8識の中に摂められる時に、パッと自我意識をかけられちゃう。自我意識っていうのは何かというと、それは仏教では染汚[ぜんま]の識で、汚れた識で、煩悩の識です。ですから第8識は煩悩識ということになるわけです。そういう厄介さを持っている。それに対して、第8識は無覆無記なんです。そういう厄介な、パッとこう何かを吹きかけて、煩悩を吹きかけるようなことはしないんです。第8識の扉を通ってきて第8識の蔵に来るものは、素直にどんなものでもキープしてくれます。執持してくれます。アーダーナ[阿陀那]してくれます。そういう識なんです。そのために、この第7識というのは二股をかけるわけです。身体を持っている時は、8識全部あります。身体が無くなるとどういうことになるかと言うと、第7識の審細[しんさい]に思量する識は無くなります。だけど第7識の常恒に思量する識は残ります。残ったのは何処に行くかと言うと、第8識に吸収されます。ですから第8識は第7識で起こった煩悩を全部持って、また続くわけですね。だから第8識というのは色々な名前がありますが、それは第8識の働きに応じた名前で、第8識には全ての経験が蔵(おさ)められます。そういう考えが善・悪・無記の三性説と言われるものです。それの一般に特徴を話しますと、善因は善果を生じ、悪因は悪果を生ずる。これを等流因果[とうるいんが]と言います。法相唯識の正義は異熟因果であると説かれます。このことを、因是[いんぜ]善悪[ぜんなく]、果是[かぜ]無記と表現しています。唯識を学んだ人は必ず、この因是善悪、果是無記というのを憶えなくてはいけない、ということになります。無記に2種がある。有覆無記、第7末那識と、無覆無記、第8異熟識、阿頼耶識と、このようになるわけです。
3.輪廻の主体としての阿頼耶識
 それで今度は、輪廻の主体としての阿頼耶識ということについて見てみましょう。資料として、『成唯識論』巻三を出してあります。読んでみます。
阿頼耶識をば断とせんや、常[じょう]とせんや、断にも非ず、常にも非ず、恒[つね]に転ずるを以ての故に。恒と云うのは謂[いわ]く、此の識は無始の時より来[このか]た、一類(無記)に相続して常に間断[けんだん]無しと云わんとするということ、是れ[三]界・[五]道・[四]生とを施設する本[もと]なるが故に、性堅[しょうけん]にして種子[しゅうじ]を持[じ]して失[しっ]せざらしむが故に。
転(常・一を庶[しゃ]す)と云うは謂く、此の識は無始の時より来た、念念に生滅して前後変異すと云わん。因滅すれば果生ずるを以て常・一に非ざるが故に。転識[てんじき]の為に種子[しゅうじ]を熏成[くんじょう]する可[べ]きが故にと。
恒と言うのは断を遮[しゃ]す。転と云うは常に非ずと云うことを表す。猶ほ暴流[ぼうる]の水の断にも非ず、恒にも非ずして相続して長時に漂[ひょう]し、溺[にゃく]する所ろ有るが如し。此の識も亦爾[しか]なり。無始従[よ]り来た、生滅し相続して、常に非ず、断にも非ずして、有情を漂・溺して出離[しゅつり]せざらしむ。
 阿頼耶識が中心に置かれるわけです。これは非常に長い引用ですけれども、此処に詳しく阿頼耶識というものの性格、それから阿頼耶識が続くということは輪廻転生が続くんだ、というふうに考える。この阿頼耶識の特徴を暴流の如しと譬えています。阿頼耶識は断にも非ず常にも非ず、と言って難しく何回も言っています。それで阿頼耶識は一類相続する、これは有名な言葉なんですが、阿頼耶識は一類に相続する。もう無覆無記としてずーっと続いていく。それは例えば、大河の水が流れるようなものだといいます。阿頼耶識は大きな河が流れているように思えば良いと言うんです。大河の流れは、あたかも止まってよどんでいるかのようでも、一瞬たりとも止まってはいません。止まっているのかと言えば河は流れている。流れているのかと言えば止まっているようにも見える。そういう意味で、暴流[ぼうる]の如くに心は続いていく。そしてその心が続くということは、どういうことかと言いますと、無記として、有覆無記として、または無覆無記として、ずーっと続いていくというふうに考えるわけです。輪廻転生は限りなく阿頼耶識を卒業しなければ、アーラヤの世界を卒業しなければ、続いていくと、こういうふうに考えられているし、そういうことを詳しく書いてあるところです。念念に生滅して前後変異する、変化して続くんだといいます。阿頼耶識というのは絶対に固定して考えてはいけないんです。仏性があるとか、如来蔵があるとか、そういうものではないんです。一瞬一瞬に生じたり滅したりしながら、河の流れのように限りなく流れている、というのが原則というふうに考える。それでそれがずーっと出離生死する、解脱するまで輪廻転生の世界を限りなく行くんだと、こういうことです。
 語彙の説明を其処にちょこっとしてあります。一類というのは、善・悪・無記の無記のことです。施設[せせつ]とは、因果のことです。安立[あんりゅう]のことでもあります。転とは常[じょう]と一[いつ]を遮すと言うんで、それを否定するということです。恒[こう]とは断に非ずというんで、ずーっと断じない、恒[つね]に続くという意味です。また、性堅[しょうけん]というのは、堅くという、続くずーっと続いているということを性堅と言います。自性[じしょう]と我[が]とを簡[の]べるものです。この漂という流れは、人間界と天人界を意味し、それから、溺[にゃく、デキ]というのは、溺(おぼれる)とは悪趣のことで、地獄・餓鬼・畜生・修羅といい、または地獄・餓鬼・畜生を意味する、ということです。ここに最後に、「有情を漂・溺して出離せざらしむ」というわけですから、有情(心の有るもの)が、人間界や天人界、さらには四種(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅)の世界を出離することなく、ずーっと続けるというふうに、ここを読めると思うんですね。
4.心の相続的存在と内含する性格(種子識、第8阿頼耶識の因相)
 今まで心と言ってきたんですが、唯識説で、心はどういう規定を持つのか、ということになります。それは第8識の因相[いんそう]、原因としての相(すがた)を意味するところの種子識[しゅうじしき]という言葉で表されているものです。それを仮に、心の相続的存在と内含[ないがん]する性格というふうに言ってみました。適切かどうかは、よく分かりませんですけれども。この識は、諸法の種子[しゅうじ]を執持[しゅうじ]して、諸法の生起[しょうき]の原因となる。種子を執持することによって現行[げんぎょう]する。種子は第8識中に摂在[しょうざい]されたもので、諸法各自の現象を生起させる作用である。諸法各自の親因[しんいん]となる。現行の諸法の熏習[くんじゅう]によって成される気分であることから習気[じっけ]ともいう。種子[しゅうじ]には次の種子[しゅうじ]の六義があります。この六義は万有[まんゆう]の原因たるものです。穀類などがその種子[しゅし]から生ずるように、ものごころ、物心[ぶっしん]すべての現象を生じさせる因種となるものが種子[しゅうじ]です。お気付きになったでしょうかね。普通は「しゅし」(種子)と読むものを、私先程から、「しゅうじ」、「しゅうじ」と読んでいます。唯識説では心を意味する言葉として読む時には「う」をつけて、「しゅうじ」というのが法相唯識の読み習わしです。穀類とか草や木の場合の、種子[しゅし]と違うんだ、というのだそうです。そういうふうに教わって来ておりますし、そういうふうなものとして取り扱われています。
 心を保つもの、それは阿頼耶識。それから、全ての法、諸法ですから、全ての存在が生じて起こってくる、というのは何処からかというと、それは阿頼耶識からです。阿頼耶識は何だというと、種子[しゅうじ]がキープされているところです。種子[しゅうじ]とは何かというと経験です。種子[しゅうじ]を執持することによって、それを原因として新しい行為が現れます。どういうことかと言いますと、私たちが経験をしたこと、それを心の中に埋めていく、それは唯識では熏習[くんじゅう]と言います。熏じ付けるということで熏習と言います。どういうことかと言うと、昔の貴族たちがしたように、着物に良い香りを臭わせる、それをタンスかどこかに入れてしまっておく。そして着る時に出してくる。そうすると、薫じ付けた良い匂いがプ〜ンとしてくる。これを心の働きの、働きと見て頂くと良いわけです。現行というのは、心が働いている、という意味です。心が働いている、前6識が働いている、ということは、そこで経験を持っているということです。その経験は、心の種子[しゅうじ]として、新しい経験として、心の中に摂まっていく。それを熏習[くんじゅう]と言います。その経験は種子[しゅうじ]の原因になるわけですから種子[しゅうじ]なんですが、その種子[しゅうじ]、経験が心の中に摂まっていく気分、経験した気分が心の中に摂まっていくんだということで、習気[じっけ]という表現をします。その習気が心の中に摂まっているということは、種子[しゅうじ]が摂まっている、経験したものが熏習されて、習気として気分として熏習されて、心の中に摂まって、それが種子[しゅうじ]として、種[たね]として阿頼耶識の中に、次の働きの種(原因)として阿頼耶識の中に摂められている。そして何かのきっかけ、何かの縁によって、心の中に収められていた種子[しゅうじ](経験)が、また心の第7識を通って、前6識、第1識から第6識の働きとして、また現行する。これを繰り返しているわけです。だから現行がありまして、経験があって、その経験が心に熏習される、習気として熏習される。習気は、だから煩悩なんです。それが心の中に摂まっているということは、次の現行を起こす種ですから、それを種子[しゅうじ]と言います。種子[しゅうじ]が今度また何かのきっかけによって現行する、それは新しい現行なんです。そういうふうに心は働いていると考えています。
○種子の六義
 その心としての種子[しゅうじ]には、どういう性格があるのか、というのが問題になってきます。これが理解できれば、また一歩進むことになります。唯識説における心の相続の条件には6つございます。その1番目として刹那滅[せつなめつ]というのがあります。第1の大前提です。心は有為法である。有為とは変化するということです。心は有為である、有為であるから刹那刹那に生滅変化しなければならない、という条件が付くんです。心を固定して考えてはいけないんです。心は必ず、生じたり滅したりして、変化しなければならない。だから、どうなのかと言いますと、これで明らかなように、人間には如来蔵があり、仏性[ぶっしょう]があるという説は、ここではっきりと否定されるわけです。
 その次に2番目としては、果倶有[かくう]説というのがあります。これは、果が倶[ともな]う説、果が有を倶うということで、主観的な顕現[けんげん]、原因があって、そして客観的な顕れが出てくる、結果として顕れてくる、それが同時にある、ということを言います。原因と結果が同時に成くてはならないんだといいます。これをですね、どういう言葉で言うかといいますと、種子[しゅうじ]、心は種子生現行、現行熏種子、三法展転[ちんでん]因果同時として相続する。これは唯識の特徴がよく出た表現なんです。種子生現行、心の中にあった@種子(経験)が現行、心の上に現れ生じる。心の上に現れてきたそのA現行と新しい経験・A新現行とが、またB種子として心の中に熏習される、熏じ付けられる。そのことが、三法です、心の三つの存在、在り方です。最初の@種子、それからA現行(2番目)、新しい現行(2番目)、それから3番目の種子、これを三法と言っています。この@、A、A、Bの3つの存在が三法です。これ「ちんでん[展転]」と読みます。これも法相唯識の習慣読みなんです。「てんでん」と読むと、先生に怒られちゃうんです。「ちんでん」と読むんだと何回でも言われます。それで因果が同時にあると言っている。これは、この特徴がよく出ているというのはどういうことかと言いますと、私たちの経験というのは、表層から心の中へ入ってきたものを必ず原因とする、一般的には第1識、第2識、第3識、・・、第6識から、心の中に入ってきたことを論じているわけです。だけれども唯識はそうじゃなくて先程言いましたね。心の働きは第一能変から始まって、第二能変に来て、第三能変に来ると言いました。そして、また、第三能変から第二能変に来て、そして第一能変に収まる。そのように心は働いている。だからこの場合もそうでして、この種子は既に経験としてあるものから始まっているんです。その辺が考え方が一般のものとちょっと違うところですね。既に経験としてあった心の経験、種子が、何かのきっかけで心の上に現れてきます。現れてきたそのものが、思い出したそのものが、新しい作用をして、新しい経験を作って、それがまた心の中に入ってきます。そのことが同時に起っている、というのがこの学説なんです。その例として、よく出てくるのが、ローソクの譬えです。ローソクの芯が燃えると灯りが出ます。ローソクから灯りが出ているのは芯が燃えていると言うことになります。そういうふうに心は続いて行くというわけです。ローソクが燃えたから灯りが出る。灯りがあるということは、燃えていることだと。それの前後がわかるか。前後はないだろう、ということです。そういうふうに考えてもらうと、わかり良かろうと思います。譬えとして、ローソクの島[ちゅう](芯)と配[えん](灯り)というのは必ず出てきます。そういうことが、この果倶有にあります。
 それから3番目に恒随転[こうずいてん]。種子は恒に同類のものとして相続する。経験(種子)は恒に一緒なものとして相続する。善の心は善の心として恒にずーっと、善の種子(心)が途中で悪の種子に変わったりはしない。同じように、悪の種子が途中で善の種子に変わったりしない。それは絶対認められない。そのことを恒随転といいます。恒にずーっと同じ性質が続くんです。
 それから4番目が性決定[しょうけつじょう]です。これは簡単です。善・悪・無記の三性は決定[けってい]している。途中で変更しない。これが、五姓各別説[ごしょうかくべつせつ]の出てくる根拠です。仏になる原因(種子)を持っていない人間が、途中で仏になんか成れっこないんです。生まれた時から、倶生起の中に仏になる種子を持ってないんだから、どんなに生まれてきて努力しても、それは仏になれない。非常に厳しい論理がここに出てきます。仏になる種子を持っているか持ってないかということになります。過去世に持ったか、現世に持ったかもしれない。現世に持ったものは直ちに現れるかというと、現れる場合もあるし、現れない場合もある。だけど唯識では、現れないほうを取っている。それは分別起の煩悩と、倶生起の煩悩とにかかわります。倶生起の煩悩の中に、仏になる種の無漏[むろ]の種子を持っていれば、努力次第では悟りを開くことが出来るかも知れません。だけど、倶生起の煩悩の中に、無漏[むろ]の種子を一滴も持っていなければ、どんなに努力してもそれは分別起の努力であって、倶生起を活かすための努力ではないんだから、仏には成れない。無性有情なんです。だから無性有情[むしょううじょう](不成仏)ということになってしまう。これが性決定の説かれるところなんです。
 それから、5番目が待衆縁[たいしゅうえん]です。それじゃ、種子は、どういうときに現れるのかというと、諸縁の和合によって生ずるというんです。心の中に摂まってしまった経験(種子)は、どういうときに起こってくるのかということなんです。心の中に経験が摂まっています。例えば、私の小学校の同窓会がこの間ありました。田舎の方から連絡を頂きました。小学校創設100周年記念の何かをやると言うことです。あー小学校の時にあの子も居たなぁ、この子も居たなぁ、と思い出します。何故なんでしょうか。連絡が来たから普段20年も30年も思い出したことがないのに、そういう手紙が来た、きっかけが来た、縁が来た、そのことによって心の中に種子(経験)として沈殿されていたもの、摂められていた種子が、現行してきたわけですよ。それで、同窓会のために電車に乗って田舎行って友達に会って、あぁお前はこんな顔していたのか、昔はこういう顔してたのに、なんだシワくちゃになっちゃって、何だその格好、明日にでも死ぬんじゃねぇのか、というようになる。同窓会などの、その経験は、新しい経験として心の中にまた習気として入っていくわけですよ。習気として熏じられたものが、心の中に次に生起する現行の働きをするための種子として蔵(アーラヤ)の中に摂められている。こういうような形なんですね。それをここで待衆縁といいます。
 それから、第6番目は引自果[いんじか]です。これ難しいようなんです、自果を引くと言うんです。それは善の色法の原因から、善の色法の結果が生ずる。善の心法の原因から、善の心法の結果が生ずる。これは当然なことです。ただし、善の色法の原因からは、善の心法の結果は生じないと言います。色法とは姿・形のある存在、姿・形のある認識対象のことです。そのことによって、良い気持ちになった。または良い感じを受けた。それは、そういう経験なんですね。例えば、山を見て、その山の姿・形を心におさめることを色法と言います。だけど、山も何にも見えないような海辺にいて、何処何処の山は綺麗だった、あの山は美しかったねという。それを心法と言います。具体的に山を見ているわけではありません。その山は静かで美しいという、そういう気分的なもの、精神的なものが、心法なんです。色法の種子から色法が生まれる。しかし、色法の種子から心法の種子が生じないと説きます。恒随転する。途中で色法の心(種子)から心法の心に変化してはいけないと言っています。
 この6つの条件が、種子にはあるわけです。種子[しゅうじ]という言葉の中に、この6条件が付属します。種子という言葉に、必ずこの6つが伴わなければ、唯識における種子説にはならないんです。
○本有種子と新熏種子
 種子に2種類あります。本有[ほんぬ]の種子と、新熏[しんくん]の種子です。本有の種子とは無漏[むろ]の種子のことです。無漏とは、漏が無い、煩悩が無いということなんです。無漏の種子は、先天的なものです。本有ですから、本[もと]から有るわけですから、それは先天的なものです。これを、本性住種[ほんしょうじゅうしゅ]とも言います。本性は種子としてずーっと住している。本性というのは、無漏の種子は無漏の種子として、ずーっとずーっと住している、存在している、途中では変わらない。それに対して、有漏[うろ]の種子とは、漏(煩悩)が有る種子のことです。この新熏種子というのは、新しく経験したところの種子ということです。新しく熏習された種子ということですから、新熏種子というのは有漏の種子です。それは後天的なものです。分別起の後天的なものと言うことになります。それは、習所成種[しゅうしょじょうしゅ]の種子です。これが五姓各別説[ごしょうかくべつせつ]のところで問題になります。
○五姓各別説
 いわゆる五姓各別説とは何かというと、種子の六義と本有種子、新熏種子による説です。本有種子の中に無漏種子の無い有情(心の有るもの)は成仏しないと言います。馬であっても、人間であっても、鹿であっても、象であっても、心が有るものですから有情です。ジャータカ物語はこういうところから出てきます。五姓について考えてみます。どうなるかというと、(1)菩薩定姓[じょうしょう]は、成仏します。菩薩に成ることのできる種子を持っている人は修行することにより菩薩になれます。菩薩は仏菩薩と言いますから、それは仏になれる。(2)独覚定姓[どくがくじょうしょう]、独覚になることの種子は持っているんです。本有種子として持っていますけれども、それは大乗仏教でいう成仏の世界ではなくて、独覚の世界だから不成仏です。(3)声聞定姓、声聞になることの性質は決まっている。だけど、それは仏に成ったり菩薩に成ったりすることのできる本有種子を持っていないから、これも不成仏です。(4)不定種姓[ふじょうしゅしょう]、これは厄介なんです。成仏することができると言います。何故かと言うと、種姓が不定[ふじょう]なんです。種子の性格が決定[けつじょう]していない、決まっていない。有漏であるかも知れないし、無漏であるかも知れないし、ある時に、きっかけによっては、その性格は無漏に変わるかも知れない、あるきっかけによっては、その性格は有漏になってしまうかも知れない。だから、不定なんです。そういう人は、どちらかになるわけですから、成仏する可能性があるから成仏できる。それから、(5)無性有情[むしょううじょう]、性[しょう]が無い。要するに、有漏の種子、仏に成るための、菩薩に成るための、種子が無い。それから独覚に成るための種もないし、縁覚に成るための種もない。だからと言って、その種子が、性格が決まっていないというわけでもない、決まっている。無漏の種子というものが無いというように決まっているところの有情は、当然のことですが、成仏できない。これを五姓各別説と言います。
 で、日蓮聖人は開目抄で、これを延々と非難していますね。そういう論文を発表したこともあります。
5.総報の果体(異熟識、第8阿頼耶識の果相)
 総報の果体というのは、私たちの身体のことに関する考え方なんです。身体とは異熟識という考えがあります。種子が固まって一つのものを作る、それは第8識だと言うんです。種子識は、第8識の因相、原因の方を考えたものとしてあったわけです。それで、この異熟識は第8阿頼耶識の結果のほうから見た考え方なんです。
 阿頼耶識について、『唯識三十頌』の第2偈と第3偈をあげます。
○初めに阿頼耶識なり。異熟識なり。一切種子識なり。(中略)、是れ無覆無記なり。(成論二)
これは第8阿頼耶識を指しているわけです。
○[異熟識]此は是れ能[よ]く諸[もろもろ]の[三]界と[五]趣と[四]生とを引く。善・不善の業が異熟果なるが故に、説[とい]て異熟と名[なづ]く。(成論二)
というのがあります。そして、それを説明します。
○異熟習気[じっけ]を増上縁と為して第8識を感ず。引業[いんごう]の力に酬[むく]うて恒に相続するが故に、異熟(真異熟)の名を立つ。前[さ]きの六識を感ず。満業[まんごう]に酬いたるは、異塾により起こるをもって異熟生[いじゅくしょう]と名づく。(成論二)
というのがあります。
 それから、また、続きまして、ちょっと読んでいきます。
○眼等の六識の業に感ぜられたるは、猶[なお]、声等の如し、恒に続するものには非ざるが故に、是れ異熟生なるべし。真異熟には非ざるべし。定[さだ]んで真異熟の心有って、牽引[けんいん]の業に酬いて、遍[へん]じて、断ずることが無くして、身器[しんき]を変為し有情の依[え]と作[な]ると許す応[べ]し。(成論二)
 更に、異熟の説明を続けます。難しいもんですから、続けます。異熟とは、善・不善(悪)の業因によって感得した有情の総報(総報・別報)の無記の果体(五蘊身)を言います。
これはどういう事かというと、私たちは人間(有情)としてどのように私たちの身体を保持しているかということです。輪廻転生するにあたってどのように保持しているかというと、善と不善(悪)の業因、善と不善のいろんな行為の原因により得たものとしての有情、人間なら人間としての、果報全て持ち合わせている、これを総報と言います。それに対して、姿・形のほうの果報を、別報といいます。そういうのを併せ持って、しかも無記として、有覆無記(第7識)、無覆無記(第8識)の全ての結果(総報)として、五蘊身(身体)というものがある。こういうことを長い引用文の文章は言ったわけです。
○異熟の三義
 その異熟には、どういう意味があるのかというと、3つの解釈があります。1つは、変異熟[へんいじゅく]と言うんです。原因がそのまま結果となるのではなく、何等かの変異(変化)があって熟する。例えば、麦の種[たね]を植えると、麦が出てくる。麦の種から米は出てこない。穀類の種からは、穀類以外のものは出てこない。そういうような意味で、これをまず変異熟と言います。何故かって言うと、麦の種を植えました。土に植えました。植えたところが、気候が整い、湿気が整い、土の肥料も整って、それで新しく麦が生えてきました。それで麦の実がなりました。ならば植えた麦の種と、実った麦は一緒かと言うと一緒じゃないですね。変化(変異)して実った麦です。だけど麦なんです。そういう場合を変異熟と言っています。それから2つは、異時熟[いじじゅく]です。異時熟と言うのは、時を異にして熟する。原因と時を異にして、その結果が成熟[じょうじゅく]する、現れてくる。これは今世に作った原因が来世に出てくる、というような意味のことになります。それから3つは、異類熟[いるいじゅく]です。これが法相唯識の正義です。それで異類熟を異熟識と言うわけです。それは原因と性類[しょうるい]を異にして、その原因の力に酬うて成熟する結果のことです。これを異類熟と言いまして、法相唯識では異熟識と言っています。ここに性類[しょうるい]というのがあります。その性類とは、善・悪・無記の三性のことです。異熟は善悪の業を因として感ぜられるもので、その果は必ず無記に限るものである、という意味です。原因が善の業で、善因でも、原因が悪の業で、悪因でも、第8阿頼耶識に種子としてキープされる、そのためにはそれは全部無記でなければいけない。善は無記になる、悪も無記になるから、三性の性類が変化(変異)したものとして収められる。そういう意味で、それが阿頼耶識、異熟識の正しい理解だと言うんです。それは因是善悪、果是無記という論理によって、異熟因異熟果というのが法相唯識の正義です。同類因等流果は採用しないんです。善は善の業を作る、悪は悪の業の結果を持つというようには取らない、ということです。何故かというと、阿頼耶識がもし善であれば悪の種子をはねつけてしまうし、阿頼耶識が不善であれば善の種子をはねつけてしまいます。そうすると我々の経験したものが、心の中に入っていくことは、片方は入っていくけども、片方は入っていかないという不変則になってしまう。だから、両方が、すべてが心の中に入るためには、無記として摂められなくちゃいけない、というような論理だというふうに思ってくだされば良いと思います。
 それから、異類は三界、五趣(五道)、四生を引くもので、善・悪の業が異熟果であると言います。その異熟を真異熟[しんいじゅく]と異熟生[いじゅくしょう]とに分類します。また厄介なんですが、真異熟というのはどういうことかというと、先程言いました、総報の中の総報、有情総報の果体たる第8識を言います。その真異熟を感ずる業を、引業[いんごう]と言います。引業というのは色々な経験が第8識に入ってきますね、その第8識の経験がずーっと何世紀もずーっと輪廻していく、これを引業と言います。それでそれは、真の異熟だと言います。異熟生というのはどういうことかというと、これは我々が具体的に肉体を持って生まれることです。全ての業の果体として、総報の果体として五蘊身を持つことを満業と言います。その総報の果体の異熟生として、貴賤に生まれる、頭が良い、頭が悪いというふうにも生まれる、美しいとか美しくないとかというふうにも生まれてくる。これは個人差があります。これを総報の中の別報[べっぽう]と言います。総報の中の総報(真異熟)と、総報の中の別報(異熟生)とに分かれます。真異熟として、業が引かれていく、それを引業と言います。引業は必ずしも良いとか、悪いとか、言えません。それから満業[まんごう]というのは、その引業の報いとして具体的に表現された、現れてきたものです。牛や馬に生まれて来るかも知れません。それを満業と言うわけです。このように異熟には引業と満業の捉え方があると考えておいて下さい。
○四生
 四生[ししょう]というのがあります。四生とは、胎生[たいしょう]と卵生[らんしょう]と濕生[しっしょう]と化生[けしょう]とのことです。人間のように生まれる生まれ方を胎生と言います。卵から生まれてくるものを卵生と言います。それから湿気の中からウジ虫のように生まれてくるのを濕生と言います。化生には考え方がありまして、色々なものとして生まれてくることを言います。仏が人間として生まれてくる、化生の一つでもあります。
○二世一重説
 さきほど三世両重の輪廻説が一般的なものだというように説いたんですが、それに対して、法相唯識でもどういうこと言うのかというと、法相唯識では、二世一重の説が、輪廻転生の説として説かれています。その典拠として、『唯識三十頌』の19偈が挙げられます。
諸業[しょごう]の習気[じっけ]と二取[にしゅ]の習気と倶[とも]なるに由[よ]って、前の異熟既に尽くれば、復[また]余の異熟を生ず。
この偈の前半ですね、「諸業の習気と二取の習気とが倶なう」ということで、これが我々の唯識でいうと、この偈は有情が三界を生死流転[しょうじるてん]することについて説いているものです。それには、4つの説がありまして、この中で第3番目の十二有支[うし]、十二因縁によって説く説が一番普通に言われているものです。第1説は、福業[ふくごう]、非福業[ひふくごう]、不動業[ふどうごう]を中心にして説かれているものです。それから第2番目は、名言[みょうごん]種子、我執[がしゅう]種子、有支[うし]種子、有支習気の3種の習気によって説かれるものです。3番目が十二有支、十二因縁によって輪廻転生を説く説です。それから第4番目が分段[ぶんだん]生死[しょうじ]と変易[へんにゃく]生死によって説かれるものです。これは仏身論に関わるんです。だからここではそんなに重きを置きません。先程の三世両重説を思い出して見て頂きますとわかるんですが。唯識説では、現在世を中心にして、過去と現在、それから現在と未来というようにしか生死輪廻を説かないということです。その説き方というのは、無明と行が全ての中心になって原因になっています。それに対して、識・名色・六処・触・受というものが、それの受け皿としてのものとして所引支[しょいんし]としてあります。愛・取・有というのは、そこから生ずるところのものとして取り扱われます。そして、それが過去世のものであって、その十因によって現在世の二果、生と老死が生まれてくるという。過去世から現在世へ輪廻するという一説があります。それからもう一つの説は、現在世から未来世へとつながる流転生死のもです。今度は無明から有までの十因を現在世の十因とし、それから、生・老死を未来世の二果に充てる説です。こういう様式のものを、二世一重の説とするのが唯識説のものだとされています。

○仮のまとめ
 まとめのような形でお話をさせて頂きたいと思います。有情としての人間は、「過去世から一類[いちるい](無記)に相続(連続)してきた無覆無記[むふくむき]である真異熟[しんいじゅく]による引業[いんごう]によって、現在世にその果報[かほう]として、異熟識[いじゅくしき](阿頼耶識[あらやしき]、真異熟[しんいじゅく]・異熟生[いじゅくしょう])としての有情[うじょう](五蘊身[ごうんしん])を総報[そうほう](総報・別報)の果体[かたい](身体)として今世[こんぜ]に執持[しゅうじ](阿陀那[アーダーナ])するのである。今世で新しく能熏[のうくん]・所熏[しょくん]の現行[げんぎょう](四煩悩等)による果報を感得する。現世において五蘊身(身体)が滅する時に、今世の業[ごう](善悪)の果報としての新しい真異熟の心を引業として、その人は執持して、次の未来世へと転生[てんしょう]する。それは三界、五道(地獄・餓鬼・畜生・人間・天人)、四生することを意味する。これを仏に成るまで繰り返す、と考えて見てはどうでしょうか」、というのが、一応考えられるところでございます。
○死と転生
 次に、死と転生というものを少し書いてあります。一つは死について、『成唯識論』には、人が死ぬ時は冷えて死ぬんだと言います。善悪の業によって死ぬのですけど、上から冷えてきて死ぬ人と、下から冷えてきて死ぬ人がある。これは何処から出た説かと言うと、『摂大乗論』から出た説なんです。『摂大乗論』に、人が死ぬ時に、その人の作った業によって、足の方から冷えてきて死ぬ人がいる。それから、頭の方から冷えてきて死ぬ人がいる、と説いているんです。そして輪廻転生すると言っています。だけどこれに真諦(しんだい、499〜569)が注釈しています。どういう注釈をしてあるかというと、十善業を行った人は、足から冷えてきて、阿頼耶識が頭からポッと離れる。十悪業を作った人は、頭から冷えてきて、阿頼耶識が足の先からポッと離れる。そして、輪廻の世界へ行くと説いています。そして十善業を修めた人は人間界と天人界へ生まれると説いています。死とはいつか、はっきりしているんです。頭から冷えてきた人は、足の先からポッと阿頼耶識が離れた時、五蘊身から阿頼耶識が離れて行った時ですね。その逆で、足の方から冷えてきて、頭の方から阿頼耶識がポッと離れた時、阿頼耶識は五蘊身を捨てたわけです。残ったのは第8阿頼耶識、無覆無記が残ったんです。全ての経験を無覆無記としての阿頼耶識(蔵識)の中に執持して、身体(からだ)からフッと抜けたわけです。そのように考えていたようです

 今日は、拙い話を長時間にわたってご静聴して頂きまして、誠に有り難うございました。これで私の話を終わらせて頂きたいと思います。
 玄題を一唱させて頂きたいと思います。

 南無妙法蓮華経。

 どうもありがとうございました。
注、(1) 拙著『初歩唯識入門−仏教における「こころ」と「からだ」−』(山喜房佛書林)を参考にして下さい。
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