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日蓮宗新聞 平成19年1月20日号
もっと身近に ビハーラ
藤塚 義誠
27 
老いることまる1

老いこそ明日の我が身
階段の手すりや踊り場がありがたく…

 今回より高齢者とのふれあい、そして介護について述べてみます。介護に関しては二十四回にわたり執筆された林妙和師が、現場から技術的なアドバイスを懇切に紹介されました。私は別の視点から老いを見つめ、さらに在宅介護の周辺についてふれていきたいと思います。
 団塊の世代が第一線を退き、高齢社会の門口に立つときが近づいています。高齢者の力は大きな支えで、その技術や知識、経験を生かすことが期待されています。しかし加齢とともに誰にも自立の限界が訪れます。
 お盆の棚経に、昨年まで這ってきて私の後ろで手を合わせていたお爺さまの姿がありません。介護の公的支援を仰ぎ、ヘルパーの手を借りている由、ベットサイドで励まして、その家を後にしました。入寺した四十二年前と比べ、施設介護を含め、老親介護の家庭が多くなり、ここでも高齢社会を実感します。
 私は時に法事の席へ数珠やお経本、香合などを忘れるようになりました。お布施だけは忘れたことかありませんが。探し物の時間も増え、人や物の名前がすぐ□に出なくなり、思わぬ失敗をしでかします。自信のあった正座も、立つ時膝に違和感を覚えます。年とともに身心の機能が衰え、記憶力、適応力まで欠落し、かわりに身に付くものが増えていく。老眼鏡になって久しいが、次は入れ歯か、補聴器か、先々は衣の下に失禁パンツかもしれません。
 仏教でいう六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)の働きが減退し、ついには機能しなくなります。社会福祉事典では「老いとは障害をもって生きる世代」と定義しています。老いは私たちの生命に組み込まれた厳しい摂理です。「老いはのがれえぬわざなり」とは紫式部の嘆きであり、そのまま高齢社会を生きる私たちのおののきであり溜息といえましょう。
 夫婦共白髪はこれまでの理想、これからは否応なしに親子共白髪です。母子家庭は若い母とその子を連想しがちですが、「母米寿子は還暦の母子家庭」となり、「親も子も年金貰う長寿国」です。「親孝行したい時には親はなし」は人生五十年の過去の時代。「親孝行したい時まで親は生き」となり、若者は「親孝行したくないのに親がいる」とひねり、子が担う責めを笑い飛ばして見せます。
 来客に茶菓子をすすめていたときのこと、せんべいの包み紙がとれないでいます。つい手を差しのべると「指先に力が入らねぇ、お上人もじきにこうなるさ」という声が返ってきました。老いこそ明日の我が身なのです。
 「階段の手すりや踊り場が有難く思えるようになった。踊り場で一息入れてまた登る。踊り場の意味が体を通してわかってきた」と話す八十代の男性。「通院する実家の父を長いこと送迎した。若かった私は動作の鈍い父の背に“のろまね、早くして”と叱咤していた。自分が父の年齢に近づいて侮やみきれない」と玄関に腰掛け、草履の鼻緒を足の指に押し込んでいる七十半ばの女性。その年齢に達してはじめて気がつき、わかることがあるのです。
 「年寄りは、言葉がうまい」と聞きました。「年寄りはやさしい言葉をかけられるのを喜ぶ」という意味です。盆や正月に帰省する息子や娘たちに、「家へは一度でも多く電話を入れてよ。親が三月、半年たっても忘れられない言葉をかけてよ」と話しています。
 中阿含経の「頭白く、歯落ち、威壯日に衰え、身曲り、脚戻り、体重く、気上り、杖を支えて行く、肌縮み、皮緩(ゆる)みて、皺麻子(しわまし)の如く、諸根毀熟(しょこんきじゅく)し、顔色醜悪なり、これを名づけて老いとなす」の一節は見事なまでに老いの身体的特質をつきつけてみせます。
 日蓮聖人は「大雪は重なり寒は責め侯。身の冷ゆること石の如し、胸の冷たきこと氷の如し」という身延の御草庵で晩年を迎え、老いの厳しさを「(身延の山に入ってから一歩も山を出たことはない)但し八年が間病と申し齢(とし)と申し、歳歳(としどし)に身よわく、心老耄候(おぼれそうら)ひつるほどに………」と『上野殿母尼御前御返事』に書き留められております。黒潮洗う房総でたくましく成長し、四ヶ度の大難も乗り越えた頑健なお体も老いと病にさいなまれておられます。その一方、本仏釈尊への帰依を深め、霊山浄土を期す法華経の行者として、心豊かな内面を披瀝されています。
 次回は老いの豊かさを考えてみます。
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