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日蓮宗新聞 平成19年4月20日号
もっと身近に ビハーラ
藤塚 義誠
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介護との出会い

生きる喜びを引き出し、支えます
いのちを見つめ、人生を学び、
家族の絆をたしかめ強くする 














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 山あいの集会所で葬儀がありました。寝たきりになり、在宅介護を受け三年有余、天寿を全うした農に生きたひとりの女性。秋の収穫が一段落して、集落の人々が総出で野辺送りの行列を見送っていた時です。人垣の中から、「いい嫁に看てもらい幸せだっつら、ほんとによくしてやったわ」という声が聞こえてきました。
 同じく家族の介護を受けた母の葬儀で、喪主である息子が謝辞を述べました。会葬者への型通りの挨拶の後、公務が多忙で介護は女房にまかせきりだったこと、小、中学生の娘たちがオムツの交換を手伝ったこと。心根の優しい娘たちに育ったのは母のお陰だと、一部始終を話しました。そして「A子、苦労かけたなぁ、おふくろをよく看てくれた、俺はうれしかった。A子ありがとう」の言葉で結びました。思いがけない夫の一言に、妻は袂からハンカチをとり出すと目頭を押さえました。嫁いでからの姑とのふれあい、そして介護の日々、さまざまな思いを洗い清める涙だったにちがいありません。言葉にならない余韻がしばらく式場を包んでいました。
 しかし、嫁を讃えるこれらの美談は、もう過去のものにしたいと思います。夫(男)たちも介護と向き合い、考えることは時代のテーマです。
   □  □
 ピンピンコロリは誰もが願うところですが、運動や健康管理に努めても、寝たきりにならないという保障はありません。若い者たちに世話をかけたくない、としきりに言っていた人が、意に反して介護を受ける身となり、ひどく落ち込んでしまいました。自らを責め、愚痴をこぼし、申し訳ないと言うばかりです。一方、ピンピンコロリも、ありがとうの一言すら交わせなかったと、後に残る者の嘆きは深いものがあります。いずれも避けがたい人生の局面です。
 介護との出会い──介助する者、それを受ける者。それぞれの立場に身を置くことも、仏数的に言えば、因縁によって生起する事柄です。与えられた境遇をあきらめるのではなく、事実を受け入れ生かしていくしかないのです。嘆いてみても益することはありません。自分でできる幸せ。そのありがたさは、失ってみて初めて実感するといいます。してもらえる、そして、してさしあげる幸せを、それぞれが見いだしていきたいものです。
 介護はきわめて人間的な営みです。生きる喜びを引き出し、支えます。介護はいのちを見つめ、人生を学び、家族の絆をたしかめ強くする機縁になります。
   □  □
 とはいえ介護の現実は本当に厳しいものです。食事、排泄、入浴とどれをとっても容易ではありません。体験した者でなければわからないことです。義父を介護する主婦に様子を伺うと、「相変わらずだに」という返事でした。そこには相変わらずでほっとする気持ちと、そうはいうものの、いつまでこの相変わらずは続くのかという思いがあるのです。
 介護はゴールを期待してはならないマラソンレース。その立場を周囲が理解して、どのように支え、応援するかがポイントの一つです。介護を受ける側の心配りも大事でしょう。日常の介助でも、「すまない」「申し訳ない」よりも、「うれしい」「ありがたい」の言葉が手をかける側の心に響くそうです。
 特養ホームの研修に臨んだ時でした。講話をされた施設長に、世間の人たちに一番訴えたいことは何か尋ねた時の「身近な者、なかでもお嫁さんをもっともっと大事にしてほしい」という答えが、印象深く心に残っています。
 介護を受けた方の枕経や通夜に参ることがあります。長年の重荷をおろして、やれやれといった思いの家族もいます。一方、老親の介護をなしとげたという達成感が伝わってくる家庭は、介護の労を分かち、心を合わせ、さまざまな局面を克服してきた家族のように思われてなりません。
 介護は制度だけにゆだねられません。介護の基本は「人」にあり、「心」にあるといえないでしょうか。
 (日蓮宗ビハーラネットワーク世話人、伊那谷生と死を考える会代表、
長野県大法寺住職)
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