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日蓮宗新聞 平成19年6月20日号
もっと身近に ビハーラ
藤塚 義誠
32 
介護との出会いまる3

『あんただれ』『誰だったかなぁ』

認知症の現場、介護する側も
心に口にお題目唱えたいもの

「あんただれ 誰だろうねと 母を拭く」
 年老いた母の介護をする娘の川柳です。毎朝、蒸しタオルを絞り、顔から首筋、手足を清拭する日課となっています。母はもう娘の判別がつきません。「何言っているの、嫌だねぇ、娘の○○子じゃない。忘れちゃったの? だめね、しっかりして!」と何度言ったことでしょう。見上げる母の眼差しに幾度涙したことでしょうか。今では「誰だったかなぁ」と笑顔で応えるようになりました。すべてを受け入れ、肩の荷が少し下りて、心にゆとりをもって介護に臨んでいる様子が伺われます。
 痴呆[ちほう]の「呆」は、赤子が両手両足を高く上げている形からできている文字です。年老いて子どもに返っていくことを「にどぼこ」「にどわらし」と言います。「ぼこ」は小児、赤ん坊のこと。「わらし」は童衆と書きます。「にどおぼこ」は、東北地方で女性が老いて再び子どものようになること、またその人と辞典にありました。この状態を死の恐れをなくす天の配剤とする受けとめ方あります。
 痴呆は「認知症」と改称され、広く知られるようになりました。神経細胞が消失してしまう脳の病気です。遺伝、環境、加齢など複合的な原因で発病し、悪化すると感情が乏しく意欲もなくなり、ぼんやりしたり、寝たきりの状態になる「アルツハイマー型痴呆」、脳梗塞や脳出血により発症し、多くはこれを繰り返す中で進行する「脳血管性痴呆」があり、障害が生じた脳の場所により能力がまだら状に低下することがあります。
 妄想、徘徊[はいかい]、失禁などが起き、理解できない行動や言動に介護者はとまどいを覚え苦闘します。本人もまた、混乱と不安を抱えています。
 対応としては、
まる1否定をしないで受け入れること。本人に合わせ安心に導く。
まる2プライドを傷つけないこと。叱られた理由はわからなくても、屈辱感は残ります。
まる3わかる言葉で正面からゆっくり話します。
 こうした配慮がされないと介護者への信頼が失われ、介護はより一層大変になります。
 認知症の病状に直面すると、ともすれば人間失格と見放しかねません。家を思い、子や孫のため、また社会に対し骨身を削ってきた過去の栄光を切り捨てていいはずはありません。その人なりのプライドや喜怒哀楽の感情は失われてはいません。ましてやその内奥には、仏種を宿しています。
 日蓮聖人は法華経の常不軽[じょうふきょう]菩薩の生き方を慕い、師表とされました。「常に軽[かろ]んぜず」と呼ばれた菩薩は、どのような人も仏と見て礼拝を続けました。認知症の老いた父や母たちを、なお仏と拝することができるでしょうか。
 「お自我偈を みんな読めれて 呆けている」の一句を目にしたことがあります。
 日蓮聖人は『開目鈔』で、自我偈は天の日月、国には大王、山河の中の珠、人の神[たましい]がごときものと教示されました。私たちが常々読誦[どくじゅ]するこの根本経典に「お」の一字をつけて尊崇します。
 永年にわたって信行を重ねてきた方なのでしょう。聞違いなく速成就仏身[そうじょうじゅうぶっしん]まで暗誦[あんしょう]していますが、痴呆の症状をみせます。それでもなお救いを覚えるのは私だけでしょうか。
 日蓮聖人は、法華経を捨てよと責められても恐れることはない、「たとい頸[くび]をば鋸[のこぎり]にて引き切り…足にはほだし(足かせ)を打って錐[きり]をもってもむとも、命のかよわんほどは南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱えて唱え死ぬるならば…(『如説修行鈔』)と説かれました。
 こうした激しさとはまた別の局面にある認知症の介護現場、そこに響くお題目は限りなく尊いものです。この世のいのちを全[まっと]うするとき、ご本仏は手を取り、肩に荷って、霊山[りょうぜん]浄土に迎えとってくださるはずです。
 西か東か、昼か夜か、食べたか食べないかわからなくなっても、お題目が口に出るといいなぁと思います。ことさら厳しい認知症の現場、介護する側も心に口にお題目を唱えたいものです。光がさしてくることでしょう。
 (日蓮宗ビハーラネットワーク世話人、伊那谷生と死を考える会代表、
長野県大法寺住職)
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