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日蓮宗新聞 平成20年10月20日号
もっと身近に ビハーラ
藤塚 義誠
48 
 看取りまる6

死は全てを無に帰するのか?
ふれあいを通して 安らぎへと導く

 人は生きている問だけ、この人生がすべてでしょうか。信じられるものは生のみ、死ねば何もなくなる、全ては終りだと思いますか。そうであれば死は敗北です。死が視野に入ってきたとき、嘆いたり、恐れおののくことにもなりかねません。
 もし看取りの場で、死んだらどうなるの、どこへ行くの?と聞かれたとして、死ねば何もかもおしまいよと言えるでしょうか。仮に私がその場に身を横たえていたなら、死はすべてを無に帰すと考える人に、安らぎを得ることはないでしょう。
 死生観とは死と生についての見方、考え方です。それは私たちがもつ心構えであり、一人ひとりみな違います。それは死後の世界に対する観念が重要な部分を占め、人生経験、自然や宗教などにより形づくられています。看取りに大切なことは、ふれあいを通し、その人の死生観、死後観を養い、安らぎへと導くことです。来世への希望を持って生を全うすること、それはまた死を生きるということになります。
 息子や娘を前にして「幸せにおなり、人にはよくしてあげなさい…。いつも守ってあげるからね」と言葉をかけていった母がいました。また、後に残していく夫に「お父さんごめんなさい、一足先に行きます、待っていますよ」と言い遺した妻がいました。別れに臨んで語りかける真情は美しくもあります。
 檀信徒の通夜に伺いますが、読経を済ませた後も、なるべく納棺に立ち合うよう心掛けています。業者が事を進めますが、私も最後に花を添えてお別れをします。このとき家族や縁者が呼びかける言葉は、哀切であり、いつも胸を打たれます。
 夫が妻の前髪をなでながら「苦労かけたなあ…」と言ったまま言葉に詰まったり、年老いた母が息子に先立たれ「なんで私を置いてっちゃうの」と泣き崩れています。そして多くの人があの世、来世を考えています。母の棺に手を添えて「おかあちゃん、いいところへ行きなねえ」と送り出した娘がいました。いいところとはどこでしょうか。「気をつけていけよう」「侍っててね、また会えるよね」などと声をかけています。いずれも来世への期待と願望がそこにあります。
 芭蕉か信州木曽谷を紀行した折の一句に「送られつ送りつ果ては木曾の秋」があります。送っては送られる人の世、早い遅いの違いだけです。作者不詳とされ、よく知られる句に「散る桜残る桜も散る桜」があります。看取る側もいつか散りゆく身、先に往く者の思いをしっかりと受け止めたいものです。お互いに散りゆく桜という自覚に立つとき、そこに共感と優しさが生れてきます。また、看取る側の死生観が看取りの質を左右するといわれています。
 さて、私たちお題目を唱える者はどこへ往くのでしょうか。どこを目指すのでしょうか。それは法華経に示されるご本仏、お釈迦さまのまします霊山浄土です。日蓮聖人も必ず待っていますとはっきり述べておられます。
 お釈迦さまが法華経を説かれるその座に導かれ、迎え入れられることを確信し、お題目を唱え、法悦と安らぎの世界に帰って往くことを霊山往詣[りょうぜんおうけい]といいます。
 花びらが舞い、虚空に音楽が聞こえ、さわやかな風が吹きわたり、光に満ちあふれて、生滅変化を超えた永遠の浄土とされています。日蓮聖人はこの法華経を持[たも]ちなさい、お題目を唱えなさい、「各々励ませ給え」と呼びかけておられます。今生と来世、それはひとつづきにつながっているものです。この世の想念は次の世に続いていくものです。「三世各別あるべからず」で、過去、現在、未来を貫くお題目の中に私たちの救いは約束されています。
 「南無妙法蓮華経とだにも唱え奉らは、減せぬ罪やあるべき、来らぬ福[さいわい]やあるべき」(『聖愚問答鈔』下)
 「此の経(法華経)を持[たも]つ人々は他人なれども同じ霊山へまいりあわせ給うなり」(『上野殿御返事』)
 お題目を唱える私たちにとって、何と安心を覚えるお言葉でしょうか。
 (日蓮宗ビハーラネットワーク世話人、伊那谷生と死を考える会代表、
長野県大法寺住職)
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