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日蓮宗新聞 平成23年12月20日号
もっと身近に ビハーラ
藤塚 義誠
86 
 悲 嘆 まる11

聞く人がいれば、悲しみを力にできる

 大切な人を亡くし立ち直ることさえ困難と思える悲嘆。その胸の内を言葉にして語りあうことで悲しみを共有し、ただちに解決はできなくても、人の心のやさしさにふれ、少しずつ生きる力を得ようとする集いが、前回紹介した分かちあいの会です。ここでは互いに聞き役となり、ひたすら耳を傾けます。
 死別の悲嘆はそれぞれ背景が異なり、また人により悲しみの受けとめ方、表し方は多様です。しかし、悲嘆にともなう感情には、共通する思いがあります。分かちあいは他人の話をいかに深く聞くかが問われる場です。
 私事ですが、先年必要に迫られ、長野県傾聴ボランティア養成講座(二日間・十時間の課程)を受講しました。聞く・聴くということの奥深さと、真剣に耳を傾けるには、熟練した技と相当なエネルギーが必要であると思い知りました。
 寺は家庭問題をはじめ多くの人生相談が持ち込まれます。できる限り対応し、時に複雑、困難な事案の場合には、「お聞きするだけですよ」などと述べていましたが、とんでもないことでした。聞く・聴くという行為はたやすいことではないと、それまでの認識を改め恥じ入ったものです。
 すべての経典の冒頭は「如是我聞[にょぜがもん](是[かく]の如く我[わ]れ聞けり)」の言葉で始まります。お釈迦さまの説法を私はこのようにお聞きしましたという意味。常に師・釈尊に仕[つか]え、傍[かたわ]らで教えを耳にする機会があり、「多聞第一」と称された阿難尊者は、釈尊入滅後に経典の初めにこの語を置いて外道[げどう](仏教以外の教え)の聖典と区別することを提案したといいます。
 如是我聞とは釈尊が説き示そう、伝えたい、伝えようとされた真実を、ありのままに聞き、信じ受けとめることであり、釈尊のお心に叶う聞き方でなければなりません。聞く・聴くという姿勢とそのあり方が問われる言葉でもあります。
 僧侶は布教院や布教師養成講座など、話す技術、話し方研修の機会はきわめて多くあるものの、聞き方、傾聴の手法について必修として学ぶことはあまりありません。葬儀の後に遺族の方にお渡しするパンフレットを購入したところ、キャッチコピー(関心を持たせる宣伝文句)の「ご遺族の悲しみをもっとも理解しているのは私たち葬儀業者です」の大きな活字が目に飛び込んできました。私は故人と交わり、その家系を知りつくす住職こそ、遺族の悲しみが解らなければならないと思ったのです。
 「国際死別と悲嘆学会」に参加しているアルフォンス・デーケン上智大学名誉教授は、「多くの葬儀関係者が研究発表や討論に加わり、彼らは葬儀現場の体験を活かし、遺族カウンセリングに貢献するなど、欧米の葬儀ディレクターの社会的地位は高い」と報告しています。日本の業界でも地域の繋がりが失われ、人間関係が希薄になった社会で、葬儀のアフターケア(事後の救護・保護)としての遺族支援が重要であると、その方面の技能を有するグリーフ・ケアワーカーの養成が姶っています。私が関わる会のメモリアルサービス(愛する人を偲ぶ集い・分かちあいの会)も、葬儀社側からの要望で共同開催となりました。遺族の悲嘆を癒し、また支えることは僧侶の役割であったはずです。
 此度の震災の被災者に寄り添う要請もあり、各宗派ともグリーフケアの研修をはじめています。僧侶は葬儀執行に魂を込め、遺族を支えるグリーフケアにも心を向け、さらに法事は供養と共に悲しみを分かちあい、癒しの席となるようりードする必要があります。また、寺庭婦人は日常的に檀信徒と深くふれあう機会が多く、傾聴のスキル(技)とともにその心得について学びたいものです。
 大切なことは聞く人がいるということ。自分のつらい思いを話すことで気持ちの整理がなされ、心の痛みを軽減することとなり、「悲しみを力にする」ことができるのです。
 それは檀信徒にとって幸せなことではないでしょうか。
 (日蓮宗ビハーラネットワーク世話人、伊那谷生と死を考える会代表、
長野県大法寺住職)
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