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(日蓮宗新聞 平成17年3月1日号 2面 論説) 記事

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「認知症と臨終正念」

 先日、寝たきりや認知症(以前は痴呆症と呼ばれていた)になった家族を家庭で介護している人たちの集まりで、次のような質問を受けた。呼びかけても答えが返ってこない、あるいは家族の名前さえも忘れてしまっている人の、心の中は一体どうなっているのだろうか、と。実際にそのような家族を介護している人にとっては、極めて深刻な問題に違いない。大切な家族だからと心を込めて介護しても、介護されている本人は全く理解してくれていないのだろうか、元気な間は立派な人だったのに、子供みたいな精神状態になって、そのままで人生を終わってしまうのだろうか、と。
 この世の人生の最終段階で、意識清明なままでお題目を堅持し、霊山往詣の喜びをかみしめながら目を閉じる、そのような臨終を迎えたいものだと願わない人はいないだろう。
 日蓮聖人も、臨終の善し悪しを重視なされた。出家の動機が「されば先[まづ]臨終の事を習う」(妙法尼御前御返事)ことにあったと述べておられるし、富木殿の母の死の「りんずう(臨終)のよくをはせし」(富木尼御前御書)ことを喜び、上野殿に「あながちに法華経を尊み給いしかば、臨終正念なりけるよしうけ給はりき」(上野殿御返事)と返報するなど、法華経信仰こそが臨終正念と死後の救済を約束するものであることを説示しておられる。そして、聖人ご自身の臨終も、門弟多数の見守るなか正念のままに生涯を終えたと伝えられている。
 これが理想ではあるのだが、しかし現実には必ずしも理想の如くにはいかない。植物状態や認知症になって臨終を迎えた場合には、霊山往詣の願いは全く叶わないことになるのだろうか。このような課題を考えている時に、日蓮宗生命倫理研究会主催の講演会で、唯識の碩学である身延山大学名誉教授の岩田諦靜先生の講演を聴き、大きな示唆が得られた。
 唯識の考えによれば、眼、耳、鼻、舌、身体、意の六識の情報は末那識[まなしき](第七識)を通って阿頼耶識[あらやしき](第八識)に記憶され保持される。その記憶され保持されたものが輪廻していくのであるが、老化にともなって一〜六識の機能が低下すれば、阿頼耶識への記憶保持の機能も低下してくると考えていいのではないだろうか。阿頼耶識への記憶保持の機能が低下してくるとすれば、老化にともなう認知症などの現象は、死後のあり方に直接つながるものではないということになる。つまり、霊山往詣の妨げになるものではないと考えてもよいことになる。
 高齢者に見られる認知症は、アルツハイマー型、脳血管性、その他がそれぞれおよそ三分の一を占めるとされるが、いずれも脳細胞が変性したり破壊した結果として理解力や記憶力が低下するものである。つまり、見たり聞いたり味わうといった五感の入力機構、情報処理機構の変化によって起こってくる現象であると考えられる。物質的レベルの現象といってもよい。とすれば、阿頼耶識、あるいは菴摩羅識[あんまらしき](第九識)といった心の深層部分への影響は少ないと考えてもおかしくはない。
 たとえ植物状態になってお題目が唱えられなくなったとしても、たとえ認知症になって家族の名前を忘れたとしても、そうなる前にしっかりとお題目で心を磨いておけば、霊山往詣間違いなしと言ってもよいのではないだろうか。
 冒頭の質問に対してこのようなことを私見として答えたら、家族の介護に苦労している皆さんの顔が、一様にホッとしたように見えた。
(論説委員・柴田寛彦)
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